写真、短歌、日々の思ったこと。
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2012年09月07日 (金) | 編集 |
好きな人に、異性として好きとまではいかなくても、人として好意を持ってもらうのは、実は簡単なことではないかと思う。

1、自分を含めた全ての人に対して平等な視点でものを見ること
2、20%~50%くらい、好きな人に対して優遇をすること

1をクリアした上で2をされて、その人に好意を持たないことは難しい。
平等であるはずの信頼おけるその人から優遇されるなんて、とても気持ちの良いことだから。
基本1なので、もしも自分が間違っていたときは優遇ゆえのやんわりさでもって諭してくれるに違いない。
そういう人は自分の中で、”普通の人”や”どうでも良い人”よりは”大切にしたい人”となるように思う。

Aさんが、好きな人に好き好き言い続けてこっぴどく振られたのだけども、誰が見てもそれは最初から無理な恋だったと思う。
まず、1がまったくもってできていなかったことが第一の敗因。
本人は自分が1を出来ていたと思っているようだけど、それが実は大きな勘違い。
視点が一方向だったことに気づいていなかったのが痛いのである。

1の、自分を含めた全ての人に対して平等な視点でものを見ること、というのは、相手の立場に立って相手の気持ちを考える、ということでもある。
自分に感情があり、したいことしたくないことがあるように、相手にも相手の立場や思いがある、ということが根本にある。

Aさんは好きな人には好き好きと押しまくっていたけれど、自分に近づいてきたBさんのことは、「寄って来ないで欲しい」、「同じ空気を吸っていること自体気持ち悪い」とケチョンケチョンに言い捨てていた。
自分→好きな人への思いは、Cさん→自分への思いとは別物と思っていたかいないかは分からないけれど、平等とは程遠いAさんなのだった。
Aさんの好きな人がCさんと友だちだったこともあり(Aさん既知)、当然のごとくAさんは振られた。
そりゃそうだろう、と思うけど、本人は気付いてない。

上記の例は極端だとは思うけど、人を好きになるとなんでか人は平等な目というのを失いがちになるようだ。
好きな人に冷たくされている人、ウザがられている人は、なんで冷たいの?と思う前に、自分を振り返って見たほうが良いと思う。

好きな人の気持ちを、自分本位に変えようとしていないか?
良かれと思っているそれは、本当にその人が望んでいることか?
自分の気持ちを一方的に押し付けていないか?
相手の立場や思いはもちろん、その時の状況や体調を考えているか?
逆に好きな人に気を使いすぎて相手にも気を使わせていないか?

一生懸命になることは素晴らしいことだと思うけれど、自分や周りやあろうことか好きな人の思いを見失ってまで一生懸命になるのは逆にとっても見苦しい。
好きになってもらえるはずがない。
恋愛相談でもよく、「視野を広くもって」とか「好きになってもらえる魅力的な自分になろう」とか、ほら、あるじゃないですかw

まずは1。
客観的な視点を(基本的に)忘れないようにしたい。
(基本的に)と書いたのは、時々、たまーに忘れて自分本位になる程度なら、人間らしくて私は好きだなって思う、個人的な趣味からです(笑)

ということで、エラソーに書いてみました。
ちなみに私、恋愛はそろばんで言うところの3級くらいかと自分で思っとりますwww
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2012年08月20日 (月) | 編集 |
動物虐待について、友達がFacebookに書いていて、酷い、でも、私たちは動物を食べているし、っていう話もしてた。
その記事へのコメントである人が、家畜動物に反対なのでベジタリアンですと書いていた。
それについて、今日思ったこと。

私は、猫と一緒に暮らしているし、畑をしている。
菌が好きだから、ヨーグルトや糠漬けやパンを作ったりしている。
動物、植物、菌を育ててみて感じるのは、みんな生きたがっているということ。
生きて、増えたがっている。
人間と同じ。

だから、動物が可哀想だからベジタリアンとか、そういう考え方に素直に「そうなんやー^^」って言うことができない。
動物が可哀想なら、野菜も可哀想だし、私たちが健康のためとか言って食べてるヨーグルトの中の菌だって、もっと生きて増えたかったに違いない。

腸まで届くなんてウソよっ!
そんなのよっぼど運の良いラッキー菌しか行けない。
殆ど胃で酸まみれになって死んでしまうんだからぁぁあーーー! by菌(妄想)

動物が可哀想的ベジタリアンだったベトナム人の友達に、
「野菜も生きてる。動物が可哀想というなら、野菜だって可哀想だ」
と言ってしまって困らせてしまったことがある。
言わなくて良ことだってのは知ってる。
けど、仲の良い友達だと、思ったことを言ってしまう。

友「そんなこと言ったら何も食べられなくて死んでしまう」
私「だから、野菜を食べるなら動物も食べれば良くて、そして感謝してその分幸せに生きれば良いと思う」
という話になって、
「でも、きっとそう思っているなら動物を美味しく食べることはできないと思うから、だったらベジタリアンで良いよね。野菜を殺していることもちゃんと自覚してありがたく食べよう」
と、話は落ちるべきところに落ちてまとまった。
やれやれ(笑)
友達が、ちゃんと話に最後まで付き合ってくれる良い人で良かった。
ありがとう。
私は友達に恵まれてる。

前に、檀家になってるお寺さんの研修みたいなのに参加して、生き物の命は同等って話をしてたのに、飼ってた猫の骨を墓に入れてはダメと言われ、「え、なんで?」って思ったことがある。
おかしくないですか?
おかしいと思うの、私だけ?
研修を受けていた人達は、「それはね~w、人と動物は違うしね。別のお墓建てなきゃ。ね?^^」と言ってた。
だって、生き物の命は同等って言ってたやん。
違うの?違わないの??どっち?

私を子供だとか真っ直ぐだとか言う人がいるけど、私は大人だし、別に真っ直ぐでもない。
空気が読めないわけじゃないと(自分では)思っているし、社会がどんなふうか、どんな風に振舞うべきかもわかってる。
お寺の研修でも、「そうなんですね。やっぱりそうですよね^^変なこと聞いてすみませんw」と話を終わらせた。
やればできるのだ。

世の中には、本音と建前があり、しきたりがあり、法律があり、常識や義務があり、想定内だの想定外だの、それらは素晴らしく矛盾に満ちている。
人間が作っただけあって、ほんと不完全。
たまに気持ち悪い。

矛盾や疑問に思ったことを、考えないのはダメだ。(面白くないからねw)
けど、考えすぎてはいけない。(病気になってしまう(笑))
ほどよくこだわって、ほどよく許す。
あれこれ考えて、とりあえず65点くらいのオチをつける。(続きは次回に持ち越し)
時々こんな話を一緒にしてくれる友達がいて。
ブログに書いて、読んでくれてる人が、いたり、いなかったり。
そんな感じがええ塩梅っていうのかなって思う。

2011年12月30日 (金) | 編集 |
車を運転していると時々見かける、黒地に白や黄色文字のキリストの看板。
その色使いといい、書いてある言葉といい、何か得体の知れない、気色悪い印象を持っていました。

キリスト看板←こういうのなんだけど。
「神と和解せよ」とか、「キリストの血は罪を清める」なんて書いてるのもあって、意味わかんないし薄気味悪く、いったいあれは何なんだろう?と思っていました。

機が熟して?こないだ検索してみたら、あれは、聖書配布協力会という、宮城県にあるキリスト教系の団体が設置している看板らしいです。
なんでも聖書を配布することだけを目的としたボランティア団体だそうで、信者の募集や献金の要求などはしていないのだそう。

そんでもって驚いたのは、この看板を貼っている建物の所有者が会員というわけでもないらしく、看板を貼ったからといって金品がもらえるわけでもないんだとか。
これらの看板は、聖書配布協力会の人が、突然「建物に看板を貼らせて欲しい」とやってきて、承諾すると看板を釘打ちして帰っていく・・・という風に貼られるようです。
(■キリスト看板展示室より)

えー・・・そうなの?

私だったらこんな変な看板を貼られたら嫌や・・と思ったのですが、泥棒防止などの効果も少しはあったりして、賛否両論あるのだそうです。
聖書を配布するのが目的なら、こんなに薄気味悪い、気色悪い看板を貼らなくても良いのに。
しかも連絡先もなんも書いてないし・・・って思ったけど、あまりの気色悪さにこうして検索する私のような人もいるのだから、普通に「聖書配布してます(連絡先どこどこ)」って書くより効果あるのかも知れないですね(汗)

にしても、ほんっと世の中いろんな人がいるんだなあ。
この看板を貼りたい人(しかもボランティアで)、貼らせてあげる人(これもボランティアで)、両方の気持ちは私にはぜんっぜん分からないけど、とにかく世の中には、理解できないけど存在する物事や気持ちがたくさんあるんだなっていうことはよく分かりました。

得体が知れないけどバリエーションが豊富なので、血迷って思わずコレクションしそうになったけど、すでにコレクションされているサイトがあったので、自分で集めるのはやめましたw
↓キリストの看板がずらずら~っと並んでます。すごい~w

キリスト看板陳列館

2011年12月06日 (火) | 編集 |
「利他のすすめ」という本を読んでから、利他の難しさについて考えるようになりました。
利他とは何か?というのは、さらっと流して考えれば簡単なことです。
辞書で「利他」を調べると、

1.自分を犠牲にして他人に利益を与えること。他人の幸福を願うこと。⇔利己。
2.(阿弥陀仏が)人々に功徳・利益(りやく)を施して済度すること。

と書いてあります。
ちなみに「利他のすすめ」には自己犠牲とは違うと書いてありました。
ああそうか、そういうものなんだな、って思えばそれで納得できそうではあるんだけど、私はひねくれているのか、どうも納得がいかないのです。

私が利他を難しいと感じるのは、100%人のためを思うことの難しさだけを言っているのではありません。
「利他のすすめ」の感想文にも書いたように、見返りを期待してしまったりと確かにそれも難しいですが、私がいちばん難しいと思うのは、何が利他か?ということが良く考えると漠然としていると思うからです。

親切をするのが難しいのと同じで、こちらが利他と思っていることが相手にとっては余計なお世話ということがあります。
よく、「客観的に見て・・・」と言うけれど、どれだけがんばって人の立場に立って見ても見ているのは自分なので、どうしてもそれは「主観的に見て客観的」なだけではないかと思うのです。

難しく考えすぎるとロクなことはないけれど、私にとってはこれは考え方や行動の根っこを決定する重要なことのような気がしています。
私が主観的かつ客観的に見て「相手はAと考えている」と思って、相手は「そうじゃない、自分はBと思っている」と言ったとして、その意見がどうしても食い違う時。
「相手がBと思っているのだからBだ」ということは、もしそれが事実だとしても私の理解の役に立たないのです。

私が相手のこれまでの言動や行動から、「あなたは優しい人だ」と言って、相手が「そうじゃない、自分は偽善者で実はとても酷い人間なんだ」と言っても、私にとって相手は優しい人にしか見えない。
私が相手のこれまでの言動や行動から、「あなたは私のことを好きではない」と感じて、相手が「そうじゃない、君の事をとても好きだ」と言っても、私は相手が私のことをとても好きだと感じることができない。
これは相手を信じる信じないの話ではないのです。
簡単に流そうと思えばできる、とても難しい問題。
それと同じで、私が本当に相手のためを思って行動しても、相手がそれを望んでいなければ、私の利他は利他になることが出来ないと思うのです。

自分が考えたことが今も将来的にも相手のためであり、且つ相手の望むことであるならば、話は簡単です。
世の中のすべてがそうであれば、きっとこの世はシンプルで幸せな世界なんだろうなって思います。
だけど、残念ながらこの世界はそうじゃない。
事がシンプルでなかった場合、いったいどういう風に選択すれば良いんだろう?
迷わないためには、どうしたら良いんだろう?

私はすでに、利他を諦めかけています。
自己犠牲や自分の判断を曲げての利他は、そう思っている時点で足元が揺らいでしまっている気がします。
長く続かなかったり、結局悪い結果を生んでしまうように思えてなりません。
利己的に、私の主観で出来る限り客観的に見て、そうだと思ったことを信じて選択するしかないのでは?と思うのです。
もちろん相手との折り合いをつけながら、ではあるけれど、その努力は惜しまないつもりではあるけれど、それでも最終的には自分の判断になってしまうと思うのです。

簡単に流そうと思えばできる、とても難しい問題。
簡単に流すことが出来るのなら、ずっと流し続けるほうが楽。
そのほうが幸せかもしれません。

2011年12月01日 (木) | 編集 |
うちに来る宅配便の人で、とても感じの良い人がいます。
と言っても、言葉使いなどは他の宅配の人と同じです。
その人が他の人と違うのは、荷物の大きさや私の受け取り方によって、私が荷物を受け取りやすいように持ち方を変えてくれたり、受け取ったあと、中に入りやすいように玄関のドアを支え、丁寧にドアを閉めてくれるところです。
大抵の人は荷物を私に渡してサインをもらったらすぐお仕事終了、あざーす!という言葉も自分のほうへ意識が帰りつつ言ってる感じなのですが、その人は私が安全にその荷物を中へ運ぶまで、こちらに気を配ってくれているのが分かります。
その数秒の気配りが、この人感じ良いな、丁寧だな、仕事じゃない時も優しい人なのかも、と思わせるのです。
仕事をするならそういう風にしないとな、私も相手のことを考えた行動をしようっていつも思います。
どんなに急いでいても、仕事は余韻を残す感じでするのが理想です。

2011年11月21日 (月) | 編集 |
みくしーのコラムで「言われてグッときた異性の方言」という記事を見つけました。
方言萌えの私ですから、こういう記事タイトルを見つけたら、もちろんすぐにクリックですw
いろいろ載ってましたが、意外なところで私はこれ↓に萌えました。

■関東圏男子の「ダメだよ」(25歳女性/食品)
「私は関西出身なのですが、関西の男の子が『あかん』とか、『おまえ何してんねん』って厳しく言うところを、関東圏の男子は『ダメだよ』って言う。やさしく諭すように言われると口答えもできなくなってしまうくらいドキドキする」
たしかにー!
「ダメだよ」て・・・
「ダメだよ」て・・・
言われたらなんか、ハッとしてしまうわ。
恥ずかしくなって「ダメじゃないわ!こうしてやるー!!」って暴れてしまうかもしれないけど、でもそれでも、そんな私にも
「ダメだよ、そんなことしちゃ」ってやさしく言われたら・・・
「はい・・・ごめんなさい」と言ってしまうわきっと。
でもってナデナデでもされた日には・・・!
もう二度とそんなダメなことはしなくなるんや、きっと。

よし、関東行こ。

2011年10月18日 (火) | 編集 |
二、三日前、久しぶりに夢を見ました。
最近夢を見ないなあと思っていたら、その夜に、大洪水の夢。

夢が始まった時、私はすでに家から避難していました。
家は現実とはちょっと違うとこに建っていたけれど、そこは夢。
本来ならそこも危ないやろ!っていう家の裏の崖に避難して家を心配していました。
違和感まったくなしですw
避難はしていたけれど、私の家はまだ浸水していなくて、道路の向いの私の家より少し低い位置にあるYさん家もまだ無事でした。
うちの家は山側だからまだ良いけど、川のすぐ傍に家があるYさんたちは、もうそろそろ避難したほうがよさそうなのに、Yさん家の人たちはどうしたのか一向に見当たりません。
ていうか、夢には私以外の人は一人も出てきませんでした。
正確に言えば、生きてる人は、ですけど。

私は何をするでもなく、ずーっと川がごうごう流れるのを見ていました。
どんどん水かさが増えて、Yさん家が浸水し始めて、全部浸水して、とうとう自分の家が少しずつ水に浸水されていくのを、ずっと見ているだけでした。
時間は少しはあったと思います。
家に戻って必要なものを持ち出す時間くらいはあったような。
家が浸水し始めた時に、そういえば防寒具も着替えもお金も何も持ってないということに気付いて取りに帰ろうかと思ったけれど、その時はもう間に合うか間に合わないかギリギリの状態で、とにかく川がものすごい勢いで流れていたので、私は荷物を持ち出すのを諦めました。
何やってたんだ><と思ったけれど、もうしょうがない。
家がどんどん水に浸かっていくのをただ見ているだけでした。

そしてとうとう家が屋根まで水に浸かってしまいました。
夜になり寒くなってきて、布団を持ち出しておけばよかった・・・と思ったり、いやそれよりなんで最初にお金と携帯と防寒着くらい持ってこなかったんだろう・・・あとそういえば食べ物もない・・・と気付く私。
遅い、遅すぎる・・・。
そんなこんなしているうちにふと、そういえばお母さんは大丈夫かな?と思い出して心配になりました。
現実では母は亡くなってすでに10年以上経っているのだけど、夢の中では生きていて、しかもまだ元気にスナックwをやっている頃らしく、仕事に行ってるはずだけど、大丈夫かな・・・とすごく心配していました。

と、ここでたぶん1回、軽く目が覚めましたw
むぎちゃんが鳴いてた気がする・・・
でも私には二度寝で夢の続きが見られるという特技があって、続きを見なきゃ!と思ってすぐに寝ました。
そんな風に寝ても、夢の中ではそれを夢だと思っていませんw
私は母を捜しに行くことにしました。

夢なので、勝手に場面が切り替わってます。
洪水の水はだいぶ引いていました。
そして私は、本当なら家から車で15分くらい掛かる、母のお店のあるビルの入口にいます。
母のお店は2階。
浸水していたと思われる瓦礫を避けながら入口を入り階段へ向かうと、誰かが倒れているのが見えました。
母ではありませんでした。
知らない男性が、段のところで力尽きたように・・・死んでました。
私は怖くなり、まさか母も死んでいるんじゃないかと心配になり、「お母さん!」と呼びながら階段を上っていきました。
階段のコの字部分でもう一人、その先の階段にもう一人、男性が亡くなっていました。
私は、あかんー!!ってなって、「お母さん、どこ!?、お母さん!」と呼びながら、2階の突き当たりの母のお店に向かいました。
母の返事はありません。
ドアの開いているお店に、悲しい気持ちとすがる気持ちで苦しくなりながら入りました。

お店の中は洪水のせいでぐしゃぐしゃになっていました。
母の姿を必死で探しましたが、見当たりません。
もしかしたら上の階に避難したのかも!と思い、3階、4階と探しながら上って行きましたが誰もいませんでした。
水は3階まで来ていたようで、ここまで水が来ていた、という跡が残っていました。
私は母のことを思っていました。
どこへ行ったんだろう?生きているかな・・・
死体がないのだから、死んではいない・・・かも知れない・・・

目が覚めました。

こんな夢を見たのは、夜に雨が激しく降っていたからかも。
TVで見る震災や洪水の様子が何となく夢に現れていたような、でも所詮夢なような。
けれど、絶望的な状況のなか、祈るような気持ちで家族を探す人の気持ちは少しは分かった気がします。
よく分かったとはとても言えないけれど、でもあの悲しくて、少しの希望を一生懸命つなごうとしてしまう苦しい気持ち、私は今まで想像できてなかったなって思いました。
想像できるものじゃないとは思っていたけど、本当にそうだなって思いました。

夢でも母に会えないのかと残念だったけど、この夢は母から私への忠告だったのかも。
「自分でしっかりしとるとか一人で何でもできると思っとるみたいやけど、ほら、こうなったら何も持ち出せてないくらいうっかりなんやでw」
「何もかもがなくなる、誰もいなくなるってすごく怖いやろ?大切にせなあかんのやで。」
・・・うん、わかった。
気をつける。
わかってないかもだけど、気をつける。

2011年08月30日 (火) | 編集 |
この間、
家の建替えの時に半年ほど借りていた家の大家さんが
突然うちを訪ねてきました。
「先祖供養の話なんやけど、いっぺん聞いてみん?」
なんの話かと思ったら、どうやら宗教の誘いのようでした。

大家さんと一緒に来てた指導員?らしき女性にも、
宗教は信じていないし興味もないと言ったのですが、
こんなのもあるんや~って聞いてもらうだけで良いし、
お茶を飲みに来るつもりで話だけ聞いてもらえんかな?
と言われ、大家さんは元近所の人だし
知り合いの親戚というしがらみもあって、
結局話だけ聞きに行くことに。
昨日、聞きに行ってきました。
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2011年05月11日 (水) | 編集 |
家の中をスッキリさせよう。
要らないものをどんどん捨てよう。
今は使ってないけどいつか使うかも、の物も捨てよう。
もう、全部全部捨てよう。
あたしもゴミ袋んなかに入ろう。
ゴミ袋の中で、まるくなって眠ろう。

おやすみなさい

2011年04月23日 (土) | 編集 |
どんな秘密を打ち明けても引かず、
非難せず、
呆れず、
嫌いにならず、
離れて行かず、
話の腰を折らず、
適度な相槌を打ちながら聞く。

お互いを必要な時にはなんとしても時間の都合をつけて、
一日以内には必ず駆けつけて、
抱き寄せて、
背中をポンポンと叩いて、
「大丈夫大丈夫」と呪文のように言う。

だけども絶対に一線は越えない。

そういう契約。
ができる人がどこかにいないものか。

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