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写真、短歌、日々の思ったこと。
2011年01月19日 (水) | 編集 |
降る雪を窓越し眺めしましまの猫と並んで涅槃仏する


■題詠blog2010 「063:仏
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2011年01月19日 (水) | 編集 |
第5章、古代説話の誕生-『日本霊異記(にほんりょういき)』の世界。

日本霊異記は、奈良時代に景戒(きょうかい)によって編纂された、仏教説話集。
景戒が日本霊異記を編纂したのは、階層分化が進行する中、悪疫と貧困に喘ぎ、悪の道に走ろうとする人々の姿を見て危機感をもったからだといわれる。
祟りとか前世の因縁とか、怖そうだけど面白そう。
私は前世も来世も信じていないのだけど、因果応報にはちょっと興味があります。
因果応報は、都合の良い考えかただと思う。

なぜ自分だけが貧乏なのか、病気になるのか、不幸なのか。
それが前世の自分の行いの報いで、現世で悔い改めなければならないと言われたら、この状況から抜け出すためには身に覚えのない前世の行いを反省し、どうしてでも改めていくしかない。
「なんで!?前世なんて知らん!」って突っぱねても、今の状況が良くなるわけじゃないんだし。
悔い改めたのに現状が良くならなくても、それは前世の行いがよっぽど悪かったのだ、とか、まだ悔い改めが足らないのではないか、なんてことで片付けられてしまう。
それが因果応報w

けど、因果応報の考えがどうであれ、「なぜ?」と考えること、「こうするべきなのでは?」とあらゆる道を探ること、それから投げ出したり自暴自棄になったりしないことは大切なことだと思う。
何か問題があるとき、自分が幸せでないとき、何かや誰かのせいにするのではなく、自分の何かが悪いのではないか?と振り返る謙虚さがあれば、いずれそこから抜けだせる日が来るように思う。

ともあれ、昔の人の因果応報の考え方、因果応報を使ってどうやって人々を脅し・・じゃなくて、制していたのか?
面白そうなので、楽天ブックスで日本霊異記の上巻を買ってみました。
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2011年01月19日 (水) | 編集 |
第4章、『万葉集』の世界(2)。

まず、長歌の展開について。

山上億良(やまのうえのおくら)は、仏教思想を長歌で表現しようとした人物で、高橋虫麻呂(たかはしむしまろ)は伝説を主題に長歌を詠んだ人。
二人とも、それまでに和歌の世界になかったことを試みて長歌の可能性に挑んだものの、やはり、思想も伝説も散文のほうが向いていたのか、長歌はその後、衰退してしまったのだそう。
こういうのも一種の自然淘汰っていうのかな。
どう抗っても抗えない流れって、あると思う。

短歌について。

○寄物陳思歌(きぶつちんしか : 景物を比喩的な媒体として心情を述べる歌)
○正述心緒歌(せいじゅつしんしょか : 媒体を借りることなく心情を表現する歌)
上の二つがあるが、短歌の本質は、寄物陳思歌の中にあるとされる。

寄物陳思歌の多くが序歌様式
序歌様式とは、比喩的な景物を二句以上に展開させてこれを序詞とし、下句の心情の比喩とする方法。
つまり、短歌の多くは、上句の二句以上に心情をほのめかす景物を置いて、下句で「なぜならこうだから!」とぶちまける、または重要なヒントをもう1個置くって感じ?

あと、万葉集の時代、心情語彙が6~70語程度しかなかったというのが興味深かった。

○秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしそ思ふ
○春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても君をしそ思ふ
○遠つ人猟道の池に棲む鳥の立ちても居ても君をしそ思ふ

三首とも下の7・7が全く同じで、「立っていても座っていてもあなたのことをこそ思う」と詠っている。
下の7・7で詠まれる心情が同じだということは、その心情に向かう上の5・7・5も、全くかけ離れた詠みになることはない。
結果、似たよ~な歌になってくる。
そしてそのうち、どうにか個性を出したい詠み人たちは、上句と下句をがらりと変えたり、わざと心情を一切入れない歌を詠んで、その背後に隠れる心情を想像させたり、あの手この手で多様な表現を作り出していく・・・。

そうか、いつの時代も変わらないんだなw
それが恋人か世の中か何に向けてかは人それぞれだろうけど、みんな、他と違う自分に気付いてほしい、ハッとしてほしい、こっち見て!って四苦八苦してんだな。
私も、きみに見てほしいw