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写真、短歌、日々の思ったこと。
2011年01月23日 (日) | 編集 |
実体と名を失いしこのからだ君は匿名希望で抱き寄せ


■題詠blog2010 「067:匿名
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2011年01月23日 (日) | 編集 |
第11章、『枕草子』の世界。

清少納言は、和歌の人ではなかったけれど、散文の天才で天成の随筆家だった。
清少納言は稀な観察力と表現力の持ち主であったけれど、父が和歌の達人だったため、良い歌を詠まなければという気負いもあって和歌を詠むのは苦手だったようだ。
随筆では風景や物、人の様子、気持の細やかな描写が重要だけど、和歌でそれらを詠み込むと説明くさい和歌になってしまう。
細かい描写が得意だった清少納言は、和歌よりも随筆のほうが自分を表現できると知っていたのだと思う。
んー、でも、清少納言の表現力は認めるけれど、その人となりはあんまり好きではないなあ。

ホトトギスの歌を詠むことを条件に、特別に別荘にホトトギスの声を聴きにいくことを許されたのに、ホトトギスの声や別荘でのもてなしに歌を詠を詠まずに帰ることになって、帰りに詠みましょうと言ってたのに、帰りは帰りで道端に咲いていた花で牛車を飾ることに夢中になって結局歌を詠まなかったとか、そういうとこが好きじゃない。
しかも、歌を詠まなかったことをお仕えしている中宮にたしなめられて、今からでもよいから詠みなさいと言われたのに、結局あーだこーだを理由にとうとう詠まずじまいだとか。

いくつかのエピソードから、清少納言はよく言えば天真爛漫、悪く言えば超自己中な人だったような印象を受けた。
でも、枕草子の描写は素晴らしいと思う。
これも読んでみなければって思った。

2011年01月23日 (日) | 編集 |
第10章、女流日記文学の成立と展開。

日記と日記文学との違いは、本人の内面を照らし出すような、公ではなく私的な立場からの記述があるかどうか。
日記文学のはじまりは、『土佐日記』から。

『土佐日記』は紀貫之の五十五日間の旅日記。
公的文書や公的日記のように漢字で書き記されず、女性を装って仮名文字で書かれているところが、日記とは違う日記文学なのだそう。
この土佐日記による日記文学の方法が、その後の女流日記文学の登場を導くことになった。

「蜻蛉日記」は、高貴な身分の藤原兼家に求婚されて結婚した藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)の、夫とのあまり幸せとは言えなかった結婚生活を赤裸々に綴った日記。
「紫式部日記」は、紫式部が記した宮廷生活の詳細な記録で、同僚?が式部に言った陰口についての憤慨なども書かれている。
「更級日記」は、幼い頃田舎で育った菅原孝標女(すがわらかたすえのむすめ)が、成長するにつれて厳しい現実に挫折し、信仰に安住を求めてそれにも裏切られ、最晩年の孤独な生涯の中に人生のはかなさをかみしめるという約四十年間の精神遍歴の日記。

ちょっと気になったのは、この日記文学というもの、当時はただの日記だったのか、それとも物語のように広く読まれていたのか、どうなんだろう?ってこと。
『蜻蛉日記』の序文の中に、
<現代語訳>
人並みではない身の上を日記として書いてみたら、さぞめずらしく思われることだろうし、天下の高貴な身分の人との結婚とはどのようなものかと尋ねる際の答えの例にでもしてほしいと思われはするものの・・・
と書かれているので、当時も単なる私的日記ではなく広く読まれていたのかな・・・とも思うけど、それにしても内容がすごすぎるので、本当に人に読まれることを前提として書いたんだろうか?って思った。
だって、夫の愛人のことをあの女は皇孫で、あまりまともでない皇子の落胤(おとしだね)である、とか平気で書いてるし。
当時と今とでは、一夫多妻制だったとか、考え方自体が違うことも多いから、偽善とかがなく何かにつけ表現がストレートだったのかもしれないなー。
もし日記文学と呼ばれるこれらの日記が、実際に広く読まれることを前提として書かれたものだとしたら、それって平安時代の暴露本って感じ?
よく読まれたんじゃないかと思うw