写真、短歌、日々の思ったこと。
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2011年01月21日 (金) | 編集 |
第6章、古代漢文学の形成と展開。

奈良時代から平安前期までの漢文学、特に漢詩について。

当時、中国に政治に携わる者は文学に長けて、優れた漢詩を詠める人物でなければならないという考えがあって、中国から政治や文化を取りこんでいた日本も中国にならうようになった。
そのため、人々の関心が一時、和歌よりも漢詩のほうへ向かうこととなる。

日本最古の漢詩集は『懐風藻(かいふうそう)』。
収録作品の時代は7世紀半ばの近江朝時代から8世紀の半ば。
宴の際に作られた漢詩を編纂したもの。
詩形は、七言詩が7首、五言詩が109首(うち、五言八句が72首、五言四句が18首)。
↓こんな感じの漢詩が載っている。

五言 侍宴 一絶

皇明光日月 帝徳載天地 三才並泰昌 万国表臣義


<書き下し文>
皇明(くわうめい)は日月と光(かがや)き、帝徳は天地と載(の)す。三才並(み)な泰昌(たいしやう)、万国臣義を表す。
<現代語訳>
天智天皇の宴に侍して
天皇の(政治が天意にかなっており、)明徳は日月のように耀いている。天皇の恩徳のおかげで、天・地・人の三才(才=材)が調和し、自然の運行も順調で泰(やす)らかな繁栄がもたらされており、万国こぞってわが天子に帰服臣従の節義を表している
原文の漢詩を見て、なんか褒めてる?ってのはわかるけど、詳しいことはぜんっぜん分からんww
せめてヒント1の書き下し文が出た時点で大すじが分かるようにならないと><

漢詩を詠む時には(和歌の時もそうらしいけど)、前提となる漢詩が既にあるのをちょっこし拝借して、その背景の上に新たな自分の表現をのせるような作り方をするみたい。
短歌でいう本歌取りと似たようなことらしく、この漢詩の流れもまた、長歌と同じく使えるとこだけ和歌の中に融合されていったのだろう。

短歌の中には、それ以前の有名な和歌や故事を背景にしたものが詠まれていて、知らなくてその短歌のみを読むと、薄っぺらな印象を持ってしまうことがあると思う。
題材にされている和歌や故事を知っていても、それに気付かなければ知らないのと同じことでもある。
なんだか薄っぺらだなあって感じた自分のほうが実は薄っぺらかったということになりかねない。
知識と想像力をもって優れた短歌(漢詩)を詠める(読める)人は政治に向いている、という昔の人の考えにはううなずける部分もあると思う。

平安初期の嵯峨朝(809~823年)において、近江・奈良朝以来の古代漢文学は頂点に達した。
嵯峨朝では『凌雲集(りょううんしゅう)』、『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』、次の淳和(じゅんな)朝には散文も収録された漢詩文集である『経国集(けいこくしゅう)』が勅撰(ちょくせん)された。
ちなみに勅撰集とは、天皇や上皇の命により編纂された書物のことで、最初の勅撰和歌集が古今和歌集。

その後、承和朝(834~848年)になると、漢詩は次第に衰退し、和歌が勢いを取り戻していくことになる。
それはどうやら、漢詩は中国のもので(そもそも記載が中国語だし)、日本人が日本の風土で日本人の気持を詠むには、和歌がしっくりくるっていう自然の流れだったようだ。
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