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2011年04月05日 (火) | 編集 |
第2回『クライアントと「語る」こと「表現する」こと』

心理カウンセリングの根本原則は「その時間、その面接室においては、クライアントは基本的に何を語ってもいい」ということ、そして「セラピストは守秘義務を負っており、そこで語られたことはその部屋だけに留められる」ということ。

とはいえ、最初にそういう風にきちんと説明がされたとしても、クライアントがすぐにセラピストを受け入れ、抱えている「扱いの難しい事情」を語るとは限らない。
「扱いの難しい事情」の内容は、人の「負の感情」であり、「陰の部分」であり、「汚く」、「隠しておきたい」と思われることが多い。
ユングのクライアントの中には、、毎年訪れては何ということもないことを話しては帰っていき、10年後にやっと「語る」ことができたクライアントもいたそうで、それを外に出すことができない人にとって、出す(語る)ということがどれだけ大変なことかが分かる。

家族や恋人やパートナーに「語る」ことができれば良いのだけど、ことが「扱いの難しい事情」であるため、語られるほうにもかなりの負担が掛かってくるし、その「扱いの難しい事情」を作っている原因が家族や恋人やパートナーであることも多いのだそう。
パートナーに言えないからといって矛先を小さな子供にした場合、その負担に耐えられなくなった子供が体を壊したり、そうではなくても知らずとその子のなかに澱のようなものが溜まっていくこともあるそうなので、周りの不満を子供に吐露したり愚痴のはけ口にしたりしないように注意しなければならない。

クライアントにとって、「語る」ことはどんな意味をもつのか。
「語る」とは、「向き合う」こと、「整理する」ことだそう。
混沌とした、自分のなかのどう表現したらよいか分からないことを「語る」ことによって、気持を整理することができる。

じやあ、「向き合う」、「整理する」ことができたら何なのか?
その答えはまだハッキリと示されてはいないんだけど、これまでの話からするとたぶん、自分のなかのその思い、感情を認めること(それを聴いてもらうこと)によって安心(安定)することができる、ということなのかも。
第1章で、「人は安心を感じることができると自分の力で歩くことができる」と先生は言っていた。
そうだとしたら、語ることができるようになることは、前へ進むための地固めのような、自分の位置を確認するような、そういう意味があるのかもしれない。

放送授業を聴いていて、確かに、日本は感情を前に出して表現する社会ではなく、逆に表現することが良くないことであると教えられることも多いことに気付いた。
家庭内においても、TVやゲームをしたりする時間はあっても、家族の話を聴く時間は少ないような感じだし、食べながら話をするのは行儀が悪いことだったりする。
ただ、日本人は話すことで表現することは苦手だけども、書き言葉で表現するのは得意という話も出てきた。

「語ること」=「表現すること」で、表現方法はなにも言葉を口にして話すだけではなく、手紙や作文などの書き言葉、俳句、短歌、絵を書く、写真を撮ることなどでも良いのだそう。
ユングは曼荼羅イメージを絵として書いたり、石のことやレンガの積み方などを職人に習い、家を自分で建てたりして自らを表現していたのだそうで、その家はユングの心の変容によってその姿を変えていたのだそう。

その人から出るもの、言葉はもちろん、絵や写真、短歌、ブログ記事、服装、そのどれもがその人が語ってくれているその人自身であり、気持なんだなって思った。
人はいつも、恐る恐る、様子を見つつ自分を出しているのだと思う。
それをそのまま受け入れられるかそうでないかということが、実は重大なことであることが思ったより多いのかも知れない。
どんな小さなことでも、受け入れられなければ人は悔しかったり悲しい気持になるものだと思うから。
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