写真、短歌、日々の思ったこと。
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2012年07月25日 (水) | 編集 |
第2章 「ただただ感じること」と「自分の感覚」,そして知覚

言葉で感覚を伝えるのって、ほんと難しいなって思います。
授業を聴いても、本を読んでも、なんとなく感覚的に、先生の言いたいことがわかるような、わからないような(笑)

○ブーバーが11才の頃の体験
馬のたてがみをなでていたとき、最初は馬と触れ合っていると感じることが出来た
馬も自分が撫でるごとに頭をゆったりもたげながら応じてくれて、ブーバー曰く「お互いに汝として触れ合い、語り合っていた」んだそうな。
ところがある時ふと、「これってなんて面白いんだろう」と思い、自分の手を感じた
その後、同じように馬のたてがみを撫でても、もう触れ合うということは生じず、馬も応えてくれなくなった
ブーバーは、自分の馬に対する裏切りが裁かれた、と思った。
○ヘリゲルと赤子の手の体験
ヘリゲルが弓の名手に学んでいた時、「赤子の手のように、石榴の実が弾けるように矢を放て」と言われた
ヘリゲルは「私は赤子ではなく、弓をいるのは的に当てるために私が矢を放つのであり、この考えから離れることができない」と答えた
だがその後、呼吸の練習をし、「私が矢を放つ私の手」から解放され、呼吸に集中したままで矢を放つことができる、無我の弓が実現した
ヘリゲル曰く「私が自分で呼吸しているのか、呼吸に呼吸されているのかわからない」状態だそう
私の記憶が確かならば、これって純粋経験とそうでないものの区別についての話だよね?
教科書では「触れ合う感じ方」と「自己意識と伴う感じ方」と書いてある。

○意識の明証性
自分がその都度、直接感じ、考えていることそのものの確実さのこと
夢であろうと現実であろうと錯覚であろうと、その都度感じている「痛み」や「快感」は疑うことができない
”われ思うゆえにわれ有り”

○意識作用と意識内容の相関関係
「探すこと」&「探すモノや人」、「見ること」&「見えるモノ、人」がセットになっているということ
探している人に近寄って「遅かったね」と言うことはできず、見えた人に言える
見えているのになお探していると「誰を探してるの?」と見えた人に言われてしまう
動詞で言い表される行為を意識作用行為の対象(目的語)の内容を意識内容と呼ぶ

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その人の痛みを、共感して自分の痛みのように感じているのか、想像しているのか。
むぎちゃんを撫でている時、むぎちゃんの表情を見ながら自分も喜びを感じているのか、むぎちゃんの毛ふわふわやな~と気持ちよがっているのか。
後になって思い返してみて、初めてその違いに気づく。
その時に気づくことはできない。
先生の言ってること、そういうことだよね?

「ただ感じること」、「触れ合う感じ方」、「純粋経験」・・・は、とても貴重な経験だと思います。
走っているとき、山に登っているとき、スキーをしているとき、夢中で話しているとき、ふと気がつくと「あの状態」に入っていた時の幸福感はかけがえのないものだなあって思うのです。

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